家庭学習で「大切なこと」と「やってはいけないこと」

家庭学習で「大切なこと」と「やってはいけないこと」

今回のテーマは「家庭学習」

難しいですよね。家庭学習のポイントなんて挙げたらキリがないですが、今回は意外と見落としがちな「大切なこと」をお話ししたいと思います。

なお、おそらくこの長~い代表ブログを読むとすれば、熱心な保護者の方のみかなと思いますので、保護者の方目線=「どのように子どもに家庭学習をさせるか」という観点で書きますが、当然その内容は勉強をする「子ども自身」が理解すべきことです。

では今回は結論から書きますよ。

やらせりゃいいってもんじゃない

そんなことはわかっとるわ!と怒られそうですが、これは本当に本当に大切なことなんです。

なお「やりすぎはよくない」なんて簡単な意味ではないですよ。ここにはふか~い意味があるのです。

なおこのふか~い意味がわかると、勉強ができる子とできない子を分けるとても重要な要素も見えてくるはずです。

ではそのふか~い意味を説明する前に保護者の方に一つ質問です。

「子どもの成績が上がらないから、塾のテキストがあるのに追加で問題集を買ってやらせたことはありませんか?」

ちなみにこれで上手くいった方に私はまだ出会ったことがないです。もしも上手くいった方がいらっしゃったら、もうこの続きを読まなくて大丈夫です(笑)

間違いなく、その方はこれから書くことを、すでによくわかっていらっしゃる方。

ではなぜ追加で問題集を買ってやらせると失敗するのか…そして家庭学習で大切なこととは何なのか!?

と、ここまでがニュースレター8月号で書いた内容。では続きをお読みください。
(ここからかなり長くなってしまったので、結論だけ知りたい方は下のボタンをポチっとすると結論にジャンプしますよ笑)

と、その前に「家庭学習」の基本である「宿題」についてお話ししなければいけません。

学校からも宿題。塾からも宿題。子どもたちの敵「宿題」(笑)

これまで当然のように課されてきた宿題ですが、一度その意味についてちゃんと考えてみましょう。

そこから家庭学習においての「大切なこと」と「やってはいけないこと」が見えてくるはずです。


宿題は必要か?

昨今「宿題」は必要か?という議論が盛んにおこなわれています。

学校が宿題を課すことを法律で禁じている国もありますし、国内でも宿題を廃止した学校のニュースをよく見かけましたね。

なぜなのか。

社会構造を固定化する国家の策略だ、なんて陰謀論みたいなものもあるくらい、背景には色々な事情があるようですが、簡単に言えば、宿題に価値はない、もしくはそのデメリットがメリットを上回っているという判断のようですね。

なお現在の公立小学校では学校によって差異はあるものの基本的に減っているような気もしますが、公立中・高の宿題は基本的に増加傾向。だからこそ余計にデメリットの方が目立つようになってきたのかなとも思います。

公立中学は量に関しては倍増。そしてその中身も大きく変わっています。レポート課題の増加、そして5教科の問題演習であっても、毎週の宿題ではなく試験期間ごとの課題提出型になり、そしてその課題自体が成績評価の対象になっているというところです。

高校にもなると高校ごとの特色で当然異なりますが、進学校で言うと倍くらいに増えているところがあるような気すらします。”自称進学校”なんて揶揄されるところが特に多い模様。
最近では探究型授業の課題がのっかっていることもあるんでしょうね。まじめな子ほど高校生活が全然楽しそうでないです(苦笑)

なんでこんなことになったんでしょうね。


原因は3つ

一つ目:学校で「探究」学習の重要性が増したこと

教育界の流行語大賞みたいになってますが、「アクティブラーニング」の次は「探究」が大流行しています。理念はとても素晴らしいのですが、実践方法が…。とにかく、このおかげで中学でも高校でもレポート系課題が急増中です。

これについても言いたいことは山ほどありますが、今回の話からは論点がずれますのでノーコメントで。

2つ目:学習方法に関しての指導(過程の評価)が増したから

学校が学習「方法」の指導を積極的に指導し始めた。そしてテスト結果だけではなくその過程をチェックするようになりました。こちらは本来、とても良い目的だったと思います…

しかしその実態は「やり方」の押し付け。最もわかりやすいのが、宿題の提出時における丸つけの仕方や、ノート提出時の形式の指定。

現在の公立中学では課題プリントや、どこかの天下り団体が作った謎の問題集を、テストが終わるたびに提出しなければいけませんが、その際、間違えた問題は赤で正解を書いて(写して)提出しないと、テストの点数に関係なく、通知表で減点されたりなんてことも…。

そして意味の分からないノートのまとめ方を指示され、先生の意にそぐわないノートを提出すると、こちらもテストの点数に関係なく、通知表の観点で減点されるという実態。

「鉛筆だけでまとめたノートだからダメ!最低3色は使いましょう」と真顔で懇談時に話す先生がいるという恐怖(笑)学習ノートをカラフルにまとめないといけない意味がわからない(笑)

そして何より、その課題という「過程」と、テストの点数という「結果」に、たとえ整合性が取れなくてもそんなの関係ね~、という学校側の評価の姿勢が大問題。

「課題を提出しなくてもテストが100点」が許されない。「完璧なノートを作っているけど、その内容を全く覚えていないから社会の点数が絶望」な子はノートの部分で評価される。

これはいったいなんのための課題なんだよ…ってことになりませんか(笑)

丸つけの仕方は大切だし、ノートのまとめ方は大切です。しかし大切なのはその「意味」であって「形」じゃない。「手段」であって「目的」ではないはずなのです。

テスト前にノートまとめをしている生徒は、それをテスト勉強のためにやっていないのです。やっているのは提出する作品・・の制作です。一生懸命仏像の写真を描いていますが、その仏像の名前をテストでは書けないんです。

現在の小中学校で指導されているのは学習方法ではなく作法。まるでマナー教室のようです。


これら2つとも、その理念はとても良いことなのですが、問題はその形骸化

できないことをやろうとして、結果、形だけ「やっている風」にしてしまっているところがほとんど。

そして本来一人一人必要なことや方法が違うはずの学習を、一括して押し付ける教育。

結果、大半の子どもたちは、何のために「探究」をしているのか、なぜこの「学習方法」を実践しないといけないのか…という根本を理解しておらず、ただ学校が「やれ」というから仕方なくやっている…これが現実です。

いずれもテストの結果以外で評価しよう、主体的に学習に取り組めるようにしよう、という本来は立派な目的が、いつからかおかしなものにすり替わり、手段が目的化したわかりやすい例です。

こんなことをしていたら子どもたちは当然勘違いするわけです。宿題は自分が何かを理解するためにあるのではなく、提出先の「大人」を満足させ評価されるためにするものだと。

まるで三流企業の仕事ができないサラリーマンみたいな発想ですよね…。


3つ目:これは高校受験、大学受験の「お受験化」


これは家庭と塾と学校の指導方針が、巡り巡ってお互いに影響を与えているということ。そしてそれは決して良いことではない。

これが自分で勉強ができない高校生を創り上げ、勉強を勘違いしたまま大学受験まで突っ込ませることにつながります。

これらについては後程詳しく書きます。




今回のテーマの家庭学習。その基礎となるべき「宿題」を、大人たちが国をあげておかしな方向・・・・・・にもっていってしまったからこそ、余計に自分で勉強できない子どもたちが増えてしまった、というのが私の考え。

こんな「宿題」なら今すぐやめてしまった方が良いと考えます。

やらされる勉強に意味はない?

我々の塾において宿題とは自主学習の指針なんですよね。自分で何をやったらいいかわからない生徒のために、授業外で何をどのように勉強すればよいか、講師から指示しているわけです。

学習において授業を聞くことの重要性について語ることはしませんが、授業だけでは絶対に学習というものが成立しないのは明らか。

学習というのはあくまで自分の頭を動かして学ぶことです。

塾の宿題というのは授業で学んだことを自分で実践し、知識や思考方法を自分のものにしていくためのもの

私の中での宿題の定義はこれ。つまり宿題というものは、ただの自主学習に過ぎない。

だからレポート系の課題以外、提出義務や、問題演習のやり方に対しての評価が加わるのがどうしても解せない。そしてそもそも、学習状況が異なる生徒が統一された課題を与えられること自体がおかしいのですがね。

それでは宿題自体が目的化してしまっている。


家庭学習で気を付けないといけないのが実はここなんです。

「宿題自体が目的化する」、つまり宿題をやり、宿題をやったと誰かに認めてもらうことが勉強の目的になると、本来の目的である「授業内容を理解して自分のものとする」ことからずれてしまいます。

宿題が勉強ではなくなる

先ほどの丸つけマナーのお話で「宿題自体が目的化する」例を挙げてみましょう。



宿題の問題を解いたあと…

  1. 丸つけをしたがらない子
  2. ワークなど何ページも解く際に、後で全部まとめて丸つけをする子
  3. 丸つけの際に赤で正解を写したあと勉強を終わってしまう子

①や②、そして何より③のタイプは大体このパターン。最悪のパターンとしては、解かずに提出期限に間に合わせるため「答えを写す」に走り出すなんてこともよくあることです。

どのパターンも解いている最中に「自分の答えがあっているかどうか気にしていない」わけです。

正解していない問題を難問解いても勉強にはなりません。

本来の丸つけマナー・・・はここを改善するための「手段」だったわけです。ところが②や③の子たちはそれを手段ではなく「目的」にしてしまった子どもたちです。

この子たちのテキストやノートを見ると、ちゃんと勉強している・・・・・・・・・・ように見えてしまうのです。しかし実際その子の頭は動いているでしょうか?

例えば「ア」と書いて間違えた問題の横に、正解を見て赤字で「イ」と書いたところで一体何が勉強になるのでしょうか。

これって実際は何も勉強していないのと同じなのです。だってできるようになっていない、つまり理解していないからです。

じゃあなんで正解を赤字で書くかというと、「そうしないといけないと学校の先生が言うから」。

勉強とはなぜ「ア」ではなく「イ」になるのかを理解すること。正解が「イ」であることを知ることでは決してないのです。

宿題を「終わらせる」ことが目的であり、「理解できている」かどうかは気にならない。

このパターンに陥ると、やってもやっても成績が上がらず、挙句の果てに自分も周囲も「勉強ができない子」だと思い込むようになってしまいます。

こんな状況で何冊テキストを渡しても、いっこうに理解につながることがない、ということになるわけですね。

もちろん年齢にもよりますし、解答を渡す、渡さないなどは塾の方針によっても異なりますので、丸つけが自分でできない子がいるのは承知の上でお話をしております。

宿題とテスト

誰もが最初は「宿題はやることに意味がある」からスタートするのです。宿題の意味なんて考えている小学生は滅多にいないでしょう(笑)

ではどこから変わるかというと、テストの始まりです。

「やった」ではなく「できた」を評価されるようになり、その評価を求め始めた子どもたちから、自然と宿題がタスクやノルマではなく、テスト勉強に代わる…

はずなのですが…そんなに現実は甘くないんです。

宿題とテスト勉強は別物、と考えてくれるならまだ救いようがある。

実際は宿題の呪縛から逃れられず、テスト勉強も「与えられた何かを終わらせる」ことだと勘違いしたままの子どもたちが本当に多い。

「テストで解けるかどうか」という、テスト勉強の当たり前の基準すら彼らにはないのです。言われたページを読んだ、解いた→テスト勉強が終わった、となるのです。


犯人は誰だ?

こんな困った状況を作っている犯人は、我々大人たちではないでしょうか?

いつまでたっても、勉強を宿題のように、ノルマを達成することが大切だと、子どもたちに思わせていませんか?

勉強することで「どうなったか」よりも「宿題が終わったか、何時間勉強したか、何冊解いたか」と評価していませんか?

こうして「ノルマ」をクリアして「指示した通りの形式を満たして」、一見勉強しているように見える子ども・・・・・・・・・・・・・・・たちが、テストで悪い点数をとってくると、テスト結果が気になる大人側としては、短絡的に「勉強量が足りない」ということにしてしまう。

これが地獄の始まりです。

子どもは早くノルマを終わらせたい。一方大人は結果を出してほしい。だから結果が出ない子には新たなノルマを与える。そして子どもはそのきつくなったノルマを、どうしたら早く終わらせられるか考える。そしてどんどん勉強がノルマの処理になっていく。

勉強はノルマではないし、少なくとも罰ではない。

たとえ子どもがちゃんと勉強していないとわかっていても、量を与えるだけならば逆効果です。余計にちゃんとやらなくなりますよ。

だって勉強がどんどんつまらなくなるから。

勉強ってそれ自体が楽しい子なんてほんとにレアケース。その分野に興味がないといけないからです。5教科全部に興味があるとか逆に八方美人もいいところです(笑)

ほとんどの場合、子どもたちは勉強が持つ「ゲーム性」で頑張るのです。つまりできないことができるようになる→点数が上がる=レベルアップ、高得点を取る=ハイスコアをとる、というゲーム感覚です。

勉強をノルマにするということは大切な勉強への興味を削ぎ、なんならそんなゲーム性すら消し去る危険性もあるのです。


子どもたちに悪意はない

例えば、授業中に「算数の文章題でわからなかったら図を描きましょう」と指示したとします。

しかしそういう子は書かない。「できるようになりたい」よりも、「早く終わらせたい」が勝つからです。

授業中は図を描きなさいと言われるから描く。だから解ける。

しかし宿題になると面倒なので、図を描かず適当に解答する。だから図を描くことが定着しない。そしていつしか、どんな図を描かないといけなかったか、そもそも図を描かないといけないなんてことは頭から消え去り、テストで解けないから、理解していないのだと言われ、追加の問題を与えられる。こんな負のスパイラルが起きているのです。

考えることを面倒に感じて放棄してしまっている子は、当然ながら伸びません。しかしそんな自覚があるのであれば、まだ大丈夫。ほとんどの子どもは悪意などなく、ただ与えられたノルマを必死にこなしているだけ。

授業時に「ここはどうやって計算しますか?」と掛け算と割り算を間違えやすい問題について尋ねたとしましょう。こういうタイプの子は即答します。それがあっているかどうかは問題ないのです。

即答するのが問題。

もちろん理解している子が即答するなら大丈夫。しかし理解していない子に当てているのですよ。なぜ即答できるのか。

それは考えないから。

立ち止まって考える癖がついていないからですね。答える前に「ストップ!考えてから答えて!」というと正しい答えを言いますが、止めないと条件反射で考える前に答えをだしてしまう。

宿題のときもこうやって解いているのです。「上の問題で掛け算したからこの問題も掛け算だろう」「上の問題でingをつけたからこれもingだろう」

繰り返しますが悪意はないのです。これが勉強だと信じているだけです。中高生にもなればもうそれが体にしみ込んでしまっていてちょっとやそっとでは抜けなくなってしまいます。

大切なのは、何のためにそれをやっているのかをちゃんと理解させること。

そして「考える」「理解する」とはどういう状態のことを言うのか、何度も立ち止まって説明することです。

それが少しでもわかってくれば、たくさんの演習を通じて、そこから自分がやっていることを一般化する(十を聞いて一を知る)ことができるようになり、さらにその先にある学習の理想形「一を聞いて十を知る」状態へ進化していくことができるはずです。

「ここがこうだから掛け算ではなく割り算をするのかな」「こういうときにingをつければいいのかな」という風に頭が動くようになります。

これがいわゆる「できる子」です。

できる子

中学や高校のときに必ずクラスに一人はいた、勉強していない(ように見えるのに)のにテストの点数が良い子。

彼らを「頭がいい」という言葉で片づけないでくださいね。

彼らは「十を聞いて一を知る」のではなく、「一を聞いて十を知る」ことができるのです。なぜならひとつひとつしっかり理解・・しているから。

それが「できる子」です。

なお、こんな状態を作りやすいのは保護者が勉強に関与しやすい小学生のころであるは言うまでもありません。

ちなみにそんな「できる子」の保護者に幼いころ何をさせていたか?と聞いてみると…

できる子の保護者
できる子の保護者

勉強しろって言ったことないのよ~オホホホ

なんて返事が返ってきたりするんですね。芸能人が「お肌のケアは化粧水だけ」って言っている感もありますが(笑)

しかし実際、公立高校から京大や国公立医学部に合格した私の元生徒たちは全員このパターンでした。

かといって放置しているわけではないのですよ。

おかしなノルマを与えていないだけです。何時間勉強するか、どれだけ問題集をたくさん解くかなんて気にしていない、もしくは子どもたちに意識させなかったのです。

逆に「できる子」のもう一つの共通点は「負けず嫌い」に育てられたということでした。

これは勉強に関してではなくスポーツだったり、他の習い事だったり、日常の遊びなどから自然と学ばせたのかもしれませんね。そういうものから学ばせたのかもしれません。それがテストの「結果」を意識するように働いたのでしょうね。それが意識して行われたか、偶然そうなったかはわかりませんが。

これは「公立高校」の生徒の話であるのがポイントです。中学受験ではなかなかそうはいかないですからね。

しかし、実は中学受験こそ、直接テストの「結果」を意識する一番のきっかけです。求められるのは「ノートの出来」ではなく「模試」の結果。「何のために勉強しているのか」ということを意識しやすい環境ではあります。

だから子どもに受験への意識がない場合、とんでもなく難しい受験になるわけですが、逆に、ここで勉強とは何かをつかんだ生徒は、やはりその後も強い。逆に無理やりおかしな方法で押し込んだりすると、入学後はやっぱり大変です…。

どちらにせよ、上手くいく場合というのは、どうやったら「結果」を出す方法を、子どもが将来自分で考えられるように、上手く持って行けたということでしょうね。


今回この「できる子」の例を挙げたのは、すべての子どもたちに、高校生になる頃までにはこの「できる子」の状態になってほしいからです。

そうなっておかないとまずいのです。

さすがに高校生にもなれば親の言うことなんて聞きません。自分で勉強していく力が必要です。

勉強量やテスト結果という外から見える部分ではなく、勉強中にどのように頭が動いているかに目を入れること。ご家庭内でこれをするなら、小学生の間がベストであるのは言うまでもありません。

だから私は中学受験でも高校受験でも、合格すればいいとは思いません。「詰め込み教育」という使い古された用語がやはりぴったりかと思いますが、詰め込まれた知識は後々活躍してくれます。しかしその方法が「勉強」だと勘違いさせてしまったら、大学受験、そしてその後へとんでもない悪影響を与えてしまいます。

高校では勉強内容が格段に難しく、学ぶ内容も一気に多くなります。このときに物量でカバーしてきた子どもは一気についていけなくなってしまうのです。大学での勉強は言うまでもないでしょう。

しかし現在、それを助長するような雰囲気が高校に蔓延しているのです…。

面倒見の良い高校とは

最近困ったことに勉強への姿勢が小学生のまま、高校生になってしまった子どもたちをたくさん見かけます。

小学生は「巣で口を開けて待つ雛鳥」。まだ自分で餌を探す方法を知らないから大人がどんどん与えていく。それでよいと思うのです。

先ほど書いた「十を聞いて一を知る」ですね。

しかしどこかで自立し、自分で餌を探し出すため巣を出ないといけないはずなんですよ。つまり与えられたノルマをこなすのではなく、自分に必要な勉強を自分で考えてするようになる必要があるのです。

しかし高校生にもなってまだ「口を開けて待っている雛鳥」のような高校生が散見されます。


先ほど高校での宿題がとても多くなっているというお話をしました。

現在の公立トップ校は恐ろしい量の宿題がでますよ。

一度なかの人・・・・(先生)になんでそんなことをするのか聞いてみたところ、こんな答えが返ってきました。

「高校入試、大学入試のお受験化。保護者がそう望んでいる」

「お受験」という言葉は小学・中学受験に用いられる言葉ですね。私はこの「お」には中学受験=親の受験という意味(皮肉?)が含まれているように感じています。

どうしてもまだ自立できていない小学生ですから、中学受験には親のフォローが必須。漫画「二月の勝者」はある程度リアルな中学受験を表現していると思います。

あの世界観が高校受験や大学受験にも見えてきている、そんな意味でその高校の先生は使っていたのです。

ご存じの通り、現在高校受験も、中学受験と同じ大手進学塾が、大量の授業と大量の宿題で上位校の合格実績を上げるようになっています。ところがこういう塾は大学受験に関しては予備校の映像授業に頼るほかない。

これらの塾はまだ上記ロジックを大学受験に使えないのです。

その是非は置いておいて、ここで困るのがその生徒と保護者。高校受験で大量の授業と大量の宿題という餌を「巣で口を開けて待っていた」生徒。急に塾が「餌」を運んでくれなくなるわけです。

だから代わりに餌を運んでくれるところを探す(本来なら自立して、自分で餌を求めて巣から飛び出す年齢なのに…)

しかし、そんなところはないんですよ。

ちなみに予備校や映像授業塾、個別指導塾でも対応できません。これらは自ら学ぶ生徒をサポートするのが仕事であり、スパルタ系の大手中学受験型進学塾とは異なるのです。

後程書きますが育星舎グループの入江塾は上記スパルタ系進学塾とは一線を画します。お間違えなく!


高校で学習する課程自体がものすごい物量であるため、週に数回の授業でそんな物量をカバーできないのです(用意すべきものでもないのですがね)

だから自分で考えて勉強する!となるべきなのですが…、そうはならなかった。